包括的なマインド包括的なマインド質問者 宇宙は、全体としては完全かもしれませんが、詳細においては不完全です。 マハラジ 全体の一部も、全体との関連のもとに見られたとき、また完全となる。孤立したとき、それは欠陥をもち、苦痛の在処となる。何が孤立をもたらすのだろうか? 質問者 もちろんマインドの限界です。マインドには全体としての部分を見ることができません。 マハラジ そのとおりだ。マインドはその本質上、分類し対立するものだ。統合し、調和をもたらし、部分のなかに全体を見て、全体との完全な関連性をもった部分を見ることのできる何か別のマインドというものが在りうるだろうか? 質問者 別のマインド――どこを探せばいいのでしょう? マハラジ 限界をもたらし、分割し、相対立するマインドを超えた彼方だ。周知のように、この精神的過程が終焉したときだ。これが終わりを告げたとき、そのマインドが生まれる。 質問者 そのマインドのなかでは、喜びと悲しみの問題はもはや存在しないのでしょうか? マハラジ 私たちが知るような望むべき、あるいは憎むべきものとしてではない。それはむしろ、愛がその表現を求めて障害にであうようなものだ。包括的なマインドとは、愛が活動のなかで環境と戦い、初めは挫折しつつも最終的には勝利をおさめるようなものだ。 『アイアムザット』(ナチュラルスピリット)29pより ------------------------- この問答では、「私はある」という気づきでも、それを超えたところにある実在でもない何か別のものについてマハラジは述べている。アドバイタの師の多くはこのことについて述べていないが、それはアドバイタの道の探求者にとって益するところが少ないからなのだろう。 ここでいわれる「包括的なマインド」とは何か? 前回の主人・御者・馬・馬車のたとえでいうと、主人の臨在のもとにすべてのパーツが有機的に機能しはじめる段階のことを指しているように思える。おおくの場合、これは「主人」のオクターブが十分に機能しはじめてから起こるものであり、その意味では御者が自我として機能することを諦める「悟り」の後のステッ プだといえる。 なお、山手国弘氏の用語だと「有機結晶性」、チベット密教だと「虹の体(法身)」と呼ばれるものだと思われる。これがどういったものかを知的に理解するにはヌース理論が有効ではないか。高次元の空間構造と意識、物質との関係を解き明かすことの中にその鍵があるはずだ。 そして、もちろん占星術も役に立つ。 ヌース理論が言うように、高次元の空間構造・意識構造の射影が我々の太陽系だとすれば、その動きを天地照応的に読み解いていく占星術は、包括的マインドへ近づく一つの経路となりうるだろう。 (c)神谷充彦 |